寮猫に宛てたテプラは25年後も残っていた

吉田寮で暮らすということ

はじめに

卵の一つひとつに名前を書くルームメイトがいた。和式便器に感動して絶叫する米国人がいた。ドアに貼ったテプラは、25年たってもそこにあった。

京都大学の吉田寮には、大正2年(1913年)に建てられた木造の寮舎がある。私がそこで暮らしていたのは、1999年から2001年までの2年間である。もう四半世紀近く前のことになる。これだけ時間が経てば、記憶もだいぶ平らになっているだろうと思っていた。ところが、いざ思い返してみると、出来事の順番より先に、生活の感触のほうが立ち上がってくる。廊下を歩く音、冬の底冷え、戸の開け閉めの気配、台所から流れてくる匂い、部屋に人が増えていても、それをあまり不自然と思わない空気。私にとって吉田寮の記憶とは、まずそういうものとして残っている。

だから、吉田寮のことを書くなら、立派なことを書こうとするより、そういう細かなことを書き残したほうがよいのだろうと思った。そこで実際に人が暮らしていたことは、理念や写真だけではなかなか残らない。どんなふうに起き、食べ、話し、怒り、笑い、時に慌てて走ったか。そういう、少しくだらなく見えることの積み重ねの中にこそ、あの建物の実体はあったように思う。

宇治通いと、住まいの現実

1999年4月、私は大学院修士課程への進学に合わせて吉田寮に入った。同年3月までは東京大学理学部にいたのだが、修士からは、より面白そうに思えた京大へ移ることにした。迷ったら面白そうなほうを選ぶ、という癖は、この頃からずっと変わらない。おかげで、その後の人生でも若気の至りは数知れない。勤めを辞めてプータローになり、叔父の畑を手伝っていた時期もある。

話を1999年に戻す。京大での配属先は宇治キャンパスだった。通学の効率だけを考えれば、吉田寮は必ずしも合理的な選択ではなかった。当時、宇治に通っていた寮生は170名ほどの中でも私だけだったと思う。それでも住むことにしたのは、低家賃に惹かれたことももちろんあるが、それ以上に、見知らぬ土地でいきなり一人きりになるより、誰かのいる場所に身を置くほうが気が楽だったからだろう。学生時代というものは、便利さだけで組み立ててしまうには少し惜しい。

しかも、当時の私は日本育英会の一種奨学金で月8万円を借りて暮らしていた。住まいの条件は、単なる好みの問題ではなかった。学問も自由も、まずは毎月の暮らしが何とか回ってこそ成り立つ。吉田寮は、理想や気分だけではなく、現実に私の生活を支えてくれる場所でもあった。寮生どうしでバイトの融通をし合うこともあり、そういう実務的な助け合いが、ごく自然に生活の中に混じっていた。いま風に言えばセーフティネットなのかもしれないが、当時の感覚では、もっと雑で、もっと温かいものだった。

ルームメイトとの暮らし

割り当てられたのは南寮2階の2部屋で、同じく新入寮生の理学部一回生、9歳上の経済学部研究生の鍼灸師、そして私の3人での相部屋生活が始まった。寝るときは3人で川の字である。入寮というより、ある日突然兄弟ができたようなものだった。相部屋というと窮屈さを想像されるかもしれないが、私にとっては、窮屈さより面白さのほうが先に立っていた。

ルームメイトが友人を連れてくれば、その人とも自然に話すようになる。鍋を囲む。料理をする。議論になる。ときには一緒に銭湯へ行く。誰かの知り合いが、少しずつ自分の知り合いにもなっていく。あの建物には、そういう、少し雑で、しかし息苦しくはない近さがあった。いま思えば、吉田寮の魅力とは、古い木の柱や廊下だけにあったのではなく、人と人との距離の取り方そのものにあったのかもしれない。

3人で暮らしていると、食事も自然と共同作業になりがちだった。実家から送られてきた蕎麦の乾麺を茹でる。近所の安売りで大量購入したパスタを茹でる。そこに納豆をかけて食べる。いま書いてみると、あまり胸の躍る献立ではないが、当時はそれで大いに満足していた。若さとは頼もしいものである。

あるとき、ルームメイトが買ってきた冷蔵庫の卵を、こちらがうっかり丸ごと消費してしまったことがあり、怒った彼は、その後すべての卵に自分の名前を書くようになった。そこまでやるか、とそのときは思ったが、名前の書かれた卵が冷蔵庫に整然と並ぶ様子はいま思い出しても可笑しい。学生時代の思い出というのは、立派な出来事より、こういう細部のほうが妙にしぶとい。

吉田寮が広げた世界

当時の吉田寮には、さまざまな国からの留学生も住んでいた。大学の国際化という言葉はその頃からすでにあったが、少なくとも一般学生の生活実感としては、そうそう身近なものではなかった。だから、あの古い建物の中で、ごく普通に外国人留学生が暮らし、鍋を囲み、銭湯に行き、あれこれ話している光景には、妙な新しさがあった。建物は古いのに、中で起きていることは思いのほか開かれていたのである。

私自身、東大時代には留学生と親しく接した経験がほとんどなく、教養課程の英語も第二外国語も、試験前夜の訳文丸暗記で何とか切り抜けていたような人間だったから、寮での交流はかなり刺激的だった。隣部屋のドイツ人留学生とは一緒に鍋を囲み、銭湯へ行き、兵役時代の話や、子どもの頃にこっそり見ていた西ドイツ側のアニメ番組の話を聞いた。美容師経験のある韓国人留学生には、寮の玄関前で髪を切ってもらっていた。散髪代が浮いたこともありがたかったが、それ以上に、そういうことがごく自然に起きる生活そのものが面白かった。

あるとき、ルームメイトのゼミ仲間のレバノン人の、そのまた友人だという米国人が、日本を旅行中に寮へ泊まりたいと言い出し、何日か私の部屋に泊まることになった。客人を一時的に泊めるのは、当時は寮生の裁量に任されていた。彼はメディカルスクールを卒業したての医者の卵で、日本語はまったく話せない。こちらも片言の英語か筆談で何とか対応した。連れていった便所の個室から、「ジーザス!人生初の和式便器!すげー!」と絶叫が聞こえてきたときには、そこまで感動するものかとこちらが驚いた。後日、日本滞在で最も印象に残ったのがあれだと聞いて、ますます可笑しかった。和式便器も、捨てたものではない。

その米国人は、滞在の後半になって、どうしても日本の救急医療を見学したいと言い出した。医学部の寮生が京大病院の担当部署につないでくれ、本人が面談を受けたうえで、見学が認められた。急患が来たら私に連絡が入ることになった。深夜1時、実際に呼び出されて2人で病院に向かったところ、その夜の救急外来は思いがけず騒然とした展開になった。当の本人は大喜びである。こちらとしては、吉田寮に住んでいると人生の筋書きは本当にあてにならない、と改めて思った。

修士を終えたあと、私はその彼の住むロサンゼルスの家に2か月ほど居候し、さらに彼の勧めで米大陸横断往復バスの旅を4週間ほどすることになる。初めての海外旅行にしてはずいぶん濃い経験だったし、その後、外資系合弁企業への転職や北欧駐在へとつながっていったことを思えば、私の中の国際経験の扉は、案外あの古びた寮舎の廊下あたりで開いたのかもしれない。

学問と吉田寮

一方で、私にとって吉田寮は、単なる交流の場ではなく、研究生活を支える生活基盤でもあった。専攻は気象学、大気力学である。当時の専攻では、ゼミを除けば講義が2年間で15回ほどしかなく、レポートも試験もないまま単位が出ることすらあった。わからなければ自分で学びなさい、という、いかにも京大らしい放任である。研究室では指導教官に「教科書を疑え」「世界初でなければ意味がない」と叩き込まれ、寮へ帰れば、「常識という言葉を使うな」「他人と違うことこそ価値がある」という空気がある。表現は違っても、同じ方向を向いているのが面白かった。京大で学び、吉田寮で暮らすことに、私はたしかにある種の幸福を感じていた。

修士二回生になると、研究テーマが、赤道の入道雲から放たれて上空の中間圏にまで及ぶ大気重力波の、世界初となる3次元数値実験に決まり、生活はコンピューター漬けになった。明け方に吉田寮へ戻り、昼過ぎに宇治へ向かう日が続いた。研究室に泊まり込んでしまえば楽だったのかもしれないが、そうしなかったのは、やはり寮に戻れば人の気配があったからだろう。

当時は寮内LANが引かれていて何十台もつながっていたが、その先は1台のダイアルアップ接続で、しばしば切れるという、なかなかに頼りない環境だった。それでも自室のPCから大型計算機センターの富士通VPP800に接続し、条件を変え、パラメータを変え、再投入を繰り返していた。大正時代の木造建築の一室から、夏は作務衣、冬は半纏姿で、最先端のスパコンを操作している。いま振り返っても、なかなか変な絵である。しかし私はそのギャップが妙に気に入っていた。古い建物に住むことと、新しい知に触れることは、少なくとも私にとっては矛盾しなかった。むしろ、よく似合っていた。

木造の寮舎の具体

木造の寮舎での暮らしは、のんきで自由なだけではない。火に対してだけは、誰もが本気だった。建物が木造である以上、その緊張感は常にあった。ある夜、火災報知器がけたたましく鳴り響き、「中寮1階燃えています!」という放送が流れたことがある。私は部屋でくつろいでいたが、慌てて飛び出し、近くの消火器を抱えて現場へ走った。結果としては、台所でフライパンに火をつけたままにした煙を感知しただけで、大事には至らなかった。

だが、誰もそれを単なる笑い話では済ませなかった。木造の建物なのだから、消防車が来るまで持ちこたえればよい、などとは誰も思っていない。本気で走るしかないのである。あの大げさな放送は、結果として全寮を挙げての防災訓練になっていた。のんびりしているようでいて、肝心なところでは皆が一斉に本気になる。あの夜の空気は、いまもよく覚えている。

また、あの寮舎には、自分たちの生活よりもはるかに長い時間が積もっていた。自室のどこかには、1920年代のものと思しき落書きが残っていた。しかもドイツ語で、書かれていたというより彫られていた。日々の生活では普段そんなことを意識しないのだが、ふとそういうものを目にすると、自分はいまこの建物を所有しているのではなく、長い時間の途中を少しだけ借りているのだという気持ちになる。昨日今日の都合でできた場所ではなく、何十年もの暮らしが折り重なって今がある。古い建物の価値とは、見た目の風情だけではなく、そういう時間の厚みにあるのだろう。

南寮2階の自室で忘れられないのは、寮猫のことである。当時の吉田寮には猫が何匹もたむろしていた。隣部屋の住人が飼っていたモスも、その一匹である。ある日、そのモスがこちらの部屋に侵入し、敷いていた布団の上に見事におしっこをしていった。さすがに腹が立った私は、テプラで「監視カメラ撮影中!」と打ち出してドアに貼っておいた。すると不思議なことに、それ以後モスは入ってこなくなった。猫に日本語が読めたとは思えないので、効いたのは飼い主のほうだったのかもしれない。

そのまま私は卒業してしまったのだが、25年ほど経って吉田寮を訪れ、かつての自室の前に立ったとき、そのテプラがまだきれいに貼られているのを見つけた。何人の住人がその部屋を使ってきたのかは知らない。それでも、あの小さな札が残っていたことが妙にうれしかった。猫のおしっこの臭さまで含めて、自分の吉田寮の記憶が、その場にまだ少し居場所を持っているような気がしたからである。

私は受付で、寮母さんと他愛のないおしゃべりをするのも好きだった。何か特別な用事があるわけではない。ただ少し立ち話をする。その時間が妙に心地よかった。遠く離れた実家の母親を、どこかで思い出していたのかもしれない。吉田寮というと、自治だとか自由だとか議論だとか、どうしても大きな言葉で語られがちである。もちろんそれらは大切だと思う。けれども、実際に暮らしてみると、記憶に残るのはもっと小さなものだ。受付での世間話、台所の鍋の匂い、誰かの足音、洗濯物、戸の開け閉めの音。そういうものが積み重なって、一つの生活になっていた。

対話という流儀

そして、吉田寮で私が学んだことを一つ挙げるなら、やはり「対話」だと思う。もっとも、ここで言う対話は、意見の合う者どうしが穏やかに話すことではない。食い違いがあり、面倒があり、ときには腹も立つ。それでも、黙らせることや切り捨てることより先に、まず話をしようとする。その不器用で手間のかかる姿勢が、あの場所にはあったように思う。住まいのことでも、日々の用事でも、ときにはバイトの融通のような現実的なことでも、人が困っていれば相談に乗る。そういう小さな実務の積み重ねの中にも、あの場所の流儀は表れていた。

いま私が、会社勤めの身でありながら実名のままものを言っているのも、根は同じところにあるのだと思う。上司も部下も同僚も見ているだろうが、節度さえ守っていれば、そのほうがいい。黙っているより、まず話をしてみる。名前を出して、である。

京大は基本理念の中で、「対話を根幹として」と掲げている。まことに立派な言葉である。立派な理念ほど、掲げることより守ることのほうが難しいのだろう。だからこそ、その言葉が額縁の中で美しく保たれるだけではなく、現実の場でも同じ重みを持って扱われてほしいと願わずにはいられない。少なくとも私にとって吉田寮は、「対話」が理念ではなく、生活の中で鍛えられるものであることを教えてくれた場所だった。

木造校舎と吉田寮

昨年、私には少し不思議な経験があった。母校である富山県立高岡高校の同窓会企画で、旧木造校舎の写真を使って、その校舎を3次元的な動画として復元することを自分で思い付き、余暇を使って、一人で制作に没頭したのである。AI業界に身を置いていることも相まって、例によって、面白そうだからまずやってみよう、で始めたことだった。私はその旧校舎を知らない世代だが、木造建築の空気感にはなぜか手が届く気がした。制作の途中で吉田寮に立ち寄り、自分の感覚を呼び起こしていたことを思うと、それも当然だったのかもしれない。私の身体には、吉田寮で暮らした記憶が残っている。廊下の軋み、木の建物の冷え方、長く人が住み継いだ建物に特有の気配。そういうものを、私は吉田寮で知ったのだった。

公開してみると、反応は思いがけないものだった。同窓生向けのサイトに載せると、4か月で2000人が見に来た。東京富山県人会の役員会合でこの動画を題材に講演したところ、会場の130人が、終始誰も寝ることなく聞いてくれた。そして同窓会で上映したときには、325人の会場が何度もどよめいた。とりわけ、旧校舎で学んだ世代の先輩方の反応は大きかった。失われた校舎は、もう画面の中でしか歩くことができない。それでも人は、これほどまでに、そこへ帰りたいのだと知った。

それで今度は、やはり余暇に、私が暮らしたあの寮舎を3次元で作りはじめた。ただ、こちらは失われた建物ではない。いまも、あの場所に建っている。

もう一つ、書いておきたいことがある。私の母校のその木造校舎は、京都大学の湊総長(執筆当時)も学んだ校舎である。同じ木造の建物の中で学んだ記憶が、一方では懐かしい学び舎として語られ、もう一方ではなお現在の問題として立ち現れている。そのことに、私は何とも言えない不思議を覚える。木造の建物とは、単なる古い箱ではない。人の時間を長く抱え込む器である。だから、それをどう扱うかということもまた、単なる設備や効率の話だけでは済まないのだと思う。

おわりに

いまの吉田寮は、大正2年築のあの寮舎と、2015年にできた新棟、そして食堂からなる。新棟ができてから、古いほうの寮舎は「現棟」と呼ばれるようになった。寮生の暮らしは、いまも新棟で続いている。現棟での生活を実際には知らない寮生が、これから先、さらに増えていくのだろう。それは時間の流れからすれば自然なことである。けれども、現棟の記憶というものは、写真や図面だけでは残らない。そこで誰がどんなふうに暮らしていたか。どんな声がして、どんな鍋の匂いがして、どんな議論があり、どんな馬鹿なことが起きたか。火災報知器に飛び出した夜も、和式便器に絶叫した米国人も、卵に名前を書くルームメイトも、受付で世間話をする寮母さんも、布団におしっこをしたモスも、その後25年も残り続けたテプラも、そういうもの全部を含めて、あの吉田寮だったのだと思う。

だから私は、吉田寮を思い出すとき、単に古い建物を懐かしんでいるのではない。あの場所で、人が人とどう近づき、どう暮らし、どう時間を積み重ねていくのかを、少しだけ学ばせてもらったことを思い出しているのである。現棟がいまなお多くの人にとって現在の問題であり続けていることも含めて、あの建物に宿ってきた時間と気配は、そう簡単に過去形にしてしまってよいものではない。建物のかたちがどうであれ、その核にあるものが軽々しく失われず、これからも誰かの生活の中で受け継がれていくことを願っている。

(2026年9月記)

夕日に照らされた現棟の玄関と、その前に座る黒猫(3Dモデル)3Dで現棟を見る

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